道標

“It is better to be hated for who you are than to be loved for who you are not.”
(誰かのふりをして愛されるよりは、自分らしくいて憎まれる方がいい)

と、久しぶりにおしゃべりした友達が言った。私より40歳年上で、本や映画が大好きな彼女は、いろいろな名言や面白い話を知っていてよく教えてくれる。

「いいね、それ!誰の言葉?」
「知らない。前に聞いたことあるんだけど、今日ちょうどFacebookで出てきてたのよ」

知らないの?と笑いながら、でも本当にその通りだねとうなずいた。取り繕ったり装ったりして人に好かれても仕方がないし、嫌われても自分らしくしている方がずっといい。そのためには自分がどうしたいのかしっかりわかっていないといけないけれど、私には、まだ時々それがわからない。

「何かの役割を演じて愛されても意味がないの。自分が本当に愛されてるのか、役割が愛されているのかわからなくなるから。自分でも経験したことだからわかるけど」

そういった彼女に、「いつ、役割を演じるのをやめたの?」と訊いてみたら、少し考えて、「離婚した時かしら」と返ってきた。

「何歳の時?」
「40歳近かったわ。それからも、すぐに変われたわけじゃなくて、少しずつ時間をかけてだった。仕事ではまだ役割を演じないといけなかったし。本当に変わったのは、60歳を越えてからかもしれない。新しい街に引っ越して、誰も昔の私のことを知らない、私の家族のことも昔の友達のことも知らないという状況になって、やっとメイクをするのもアクセサリーをつけるのもやめて、外見から自分らしくなることができたの」

彼女でもそれだけ長くかかったなら、私もまだもう少し時間をかけてもいいのかな、と少し安心した。

私の周りには、素敵だなと思える年上の女性がたくさんいる。ひとまわりもふたまわりも年が離れている友人関係では、やっぱりどこかで年が上の方が下の方に対してやさしい目線を向けているところがあると思う。私の友達の女性たちも、みんなそういうやさしさを私にくれる。それが申し訳なくて追いつこうと背伸びをしてみたりもするのだけど、それもおこがましくて、結局甘えるばかりになってしまう。

20代のはじめの頃は、30代になるのが楽しみだった。まだ学生で経済力も全然なく、自分がこれからどうやって生きていくのかも見えていなくて、30代になったらもっといろんなことがわかって落ち着いているはずだと思っていた。それを当時50代だった父親に話したら、「甘いな。30代なんてまだまだだよ」と鼻で笑われたけれど、確かに父は正しかった。

30代になってみて、20代の時に比べれば多少は自分のことがわかってきたし、一応仕事もしているし、少しは落ち着いたと思うけれど、知らないこともできないこともまだ山ほどあって、なまじ大人になったつもりでいるだけに、自分が何もできないなあと思う時にはよけいに無力感にさいなまれる。

そして、人生で先を歩いている友人たちの話をいっそうありがたく感じるようになった。

これから私が人生で経験したいこと、しなくてはいけないだろうことについて、彼女たちは惜しみなく自分の経験を聞かせてくれる。私がするくだらなかったり、無神経かもしれない質問にも、丁寧に答えてくれる。私は自分のいる場所と彼女たちの歩んできた道を照らし合わせ、あせったり少し安心したりしながら、この先どこに向かっていきたいかを考える。人生の過去問を見せてもらっているような感じだ。

そんな風に道標になってくれる人がいることは、すごくラッキーなことだ。

私も10年、20年先に、誰かの道標になることができているだろうか。ずっと年下の友達がよろこんで遊びに来てくれるような、そんな生き方をしていたいなと思う。