花のベッドでひるねして

昨日の夜、寝る前によしもとばななさんの『花のベッドでひるねして』をちょっとだけ読もうと思ってひらいたら、そのままとまらなくなって読み終えてしまった。

よしもとばななさんの本は割とどれも、半分こっちの世界で半分どこかあっちの(死の)世界みたいな感じがすごくあって、死んだ人やものの念みたいなものの描写がものすごく生々しくて本能的なこわさを感じさせるところがある。どこかおとぎ話みたいな雰囲気さえあるのに、その辺りはすごくリアリスティックで、そこらへんのホラー小説よりずっとこわいと思う。

この本も、とてもかわいらしい人たちの話なのにそういう要素はすごく強くて、途中のまま寝たらこわい夢を見そうな気がして最後まで読まずにいられなかった。

そしてまた、これもばなな作品ではよく起こるのだけど、読んでいて涙がだーだーとまらなくなる箇所があるのだった。あとで読み返してもグッとくるときもあるし、あとからだと何で泣いたのかよくわからないこともある。どちらにしても、その時必要な文章だから反応してしまうのだと思う。

昨日の夜にだーだーなったところを、ちょっと長いけど書き留めておきたい。

花のベッドで寝ころんでひるねしているように生きるのは楽なことではないけれど、それを選んだからには、周りにいくらそう思われても仕方がない。

わかる人にはわかるし、わからない人にはわからなくていい。人が一生をかけて本気で成そうとしていることなのだから、かんたんにわかられても困るのだ。

しかし自然というものは、ミミズから大海まで、霧から太陽の光まで、草むらから大木まで、ちっともそんなつまらないことを思っていない。

私が自然を見れば、同じ分だけの力で自然も私を見る。

見てくれてありがとう、ほめてくれてありがとう、明日も来てくれよ…そんな感じしか返ってこない。私がだれにも恥じない真心を持っていることも、静かな熱いものを大事にしていることも、だれにも言わないでこつこつといろいろなことをやっていることも、全部お見通しだ。

私が恥じない心を持っているからこそ、それが私の自然を見る目に映る。

自然がにごらないで見えるときには、私もにごっていない。

その瞬間は自然に力を与える。寄せては返す波のように、その力はめぐりめぐって私に返ってくる。

この村の自然は私の力になって、私の力は村の大地に返っていく。

そのことはとなりの山にもふもとの海にも広がって影響を与えていく。

その循環こそが生きていることだと思うのだ。

思い出したのが、ヴィパッサナー瞑想の合宿に参加した時のことだった。

何日もだれとも話さず目も合わせずにひたすら瞑想を続けていたら、自分の中の記憶や思い込みやいろいろなものがどんどん出てきて、流れていって、すごく感覚が研ぎ澄まされていった。

ある日の休み時間に芝生のところにあるテント用の台に寝転がって、アブが花から花に飛びまわって蜜を集める様子をぼーっと見ていたら、私もこの自然の一部なんだなあとしみじみと感じた。同時に、虫や花や木は、ただただ勤勉に自分のやるべき仕事を行っているのに、人間だけが自分を卑下したり人を責めたりすることで勝手に忙しくして怠けているんだなと思った。

堂々と自分で在ること、そして自分のやるべきことをやること。

そうしてはじめて、私たちは自然に顔向けができる。

この小説は、何だかすごく命のいとなみというか、私たちの命の根源のところにふれる文章があふれていた。

あとがきに書かれていたけれど、お父さんが亡くなったすぐ後に意識もほとんどないくらいで書いた一冊らしい。そのタイミングだから書けた作品なのかなという感じがすごくした。

ばななさん、そんな時にも書くことを続けてくれて、ありがとう。

30年

30年前の今日、普段は共働きで保育園に預けられていた私は、母がお盆休みで家にいたのがとてもうれしかった。

多分、朝かお昼前くらいだったと思う。私は居間と台所の間のあたりに座り込んで遊んでいて、母も一緒にそこにいた。テレビのニュースが始まると、母はしばらくそれに見入っていた。それから、私に向かって「九ちゃん、死んじゃったんだって」と言った。すごくやさしい声だった。

私が「キューちゃん?」と聞くと、母は「この歌の人」と言って、九ちゃんの歌をちょっと歌った。母は歌声がとても元気で、その時もその元気な声で歌っていたから、私も楽しいような気持ちになって、でもテレビの映像や声の緊迫感からも「死んじゃった」ということがなにか取り返しのつかない重みのあることなのだというのはわかったので、とても不思議な気がした。

今の私とちょうど同じくらいの年だった母は、たくさんの人が大切な人を失った事故の報道を聞いた時に、きっと小さくないショックを受けたのだと思う。

幼かった私には起こったことの全貌を理解することはできなかったけれど、あの時の不思議な感覚だけは、「九ちゃん、死んじゃったんだって」と言った時の母のやさしい声とともに今も忘れないでいるし、思い出すと少し胸が苦しくなる。