アンマのこと

もう先月のことになるけれど、世界中の人をハグしてまわっているインドの聖人アンマに会いに渋谷に行ってきた。

初めてアンマのことを知ったのは8年くらい前、サンフランシスコに住んでいた時に一緒に働いていた友達が誘ってくれて、近郊の街の山の上まではるばる運転して会いに行った(星がとても綺麗だった!)。その時から数えて、会うのは今回で3回目、ハグをしてもらうのは2回目になる。

アンマに会ってとても印象深かったのが、彼女の笑顔が子どもみたいに無邪気でかわいかったことと、彼女の周りにまぶしいくらいに明るい感じが満ちていたことだ。何年も何年も、求めてくる人たちをただ抱きしめる、そういうことを続けていると人は光るんだなあと思った。

去年、ハグをしてもらった時には、耳元で「イトシイムスメ、イトシイムスメ」と囁かれた時に心臓がドゥルドゥルと震え出してびっくりしたのだけれど、今回はおなかのところが同じように震えたので面白かった。喜んでいるのか、何かいらないものを出しているのか、からだも反応しているんだと思う。

今回も、ぎゅっと胸に顔を押しつけられて、その迷いのない力強さに驚いた。

大人になると、こんな風に何の期待も照れもなく純粋に抱きしめてもらうことはあまりない。だからアンマのところには、たくさんの人が来るのだろう。

並んでいる人もたくさんいたし、そろそろ終わりかな、と遠慮して身を引こうとしたのだけれど、アンマは手を緩めずに、もうしばらく抱いてくれていた。それがとても嬉しくて、じんとした。

私が抱きしめている側だったら、相手の遠慮に遠慮して手を離してしまうと思う。それは、相手に嫌がられたくないという下心がどこかにあるからだ。

アンマみたいに、ただおそれずに愛を差し出せるように、誰かを抱きしめ続けることができるように、いつかなれるだろうか、なりたいなあと思った。

来年も行けたらいいな!

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西加奈子さん

この間、ふと思い出した光景がある。

ある街の雑踏の中で不思議な感じの人たちが奇抜なことをしているところで、いつどこでこんな場面を見たんだったかなあと思っていたら、西加奈子さんの小説のワンシーンだった。

好きな作家はたくさんいるけれど、現実と錯覚するくらいまざまざと鮮明な「記憶」を脳裏に刻みこむことができるのは、私にとっては西加奈子さんだけだ。西さんの書く文章は、からだに直接うったえかけてくる。細胞の奥深くまで揺さぶるような力強さ。そして、ものすごくどぎつくてカラフルで美しい。

最近、10年ぶりくらいに(もうそんなに!と自分でショックだった)『さくら』を読み返してみたら、さすがに細かいところは忘れていたけれど、読んでいるうちにいろいろなからだの感覚が蘇ってきて、この人の本は本当に体験なんだなあと思った。

もちろん小説は、どれも想像力の中で体験するものだ。でも、においや質感まではっきり思い出せるような文章はなかなかない。

しばらくぶりに会う長谷川家の人たちは、みんなやっぱり一生懸命で、暑苦しいほどに誰かを愛していて、愚かで必死で、かっこよくて、ああ、あなたたちがいてくれてよかった!と思った。そして、犬のさくらは相変わらず、すごくやさしくて愛らしかった。

小説家とその作品はイコールではないのはわかっているけど、西さんの見る世界はきっとやっぱり、どぎつくてカラフルで美しくて、暑苦しいくらいの愛にあふれているんじゃないだろうか。そこでは、犬や猫や植物や鳥や文房具や、いろんなものがおしゃべりしてるんじゃないだろうか。

そんな風に思いたくなるくらい、想像と現実の世界を混ぜこぜにしてくれる西加奈子さんの作品が、私は本当に好きです。

どれもほんとうに良いけれど、個人的なおすすめは、『さくら』、『漁港の肉子ちゃん』、『サラバ!』と『きりこについて』です。

きもちのいい人

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松本に、陶芸家の友達の展示を見に行った。

彼女とは、以前に仕事でインタビューをさせてもらったのがきっかけで知り合った。

彼女のつくる器は、ほっこりとあたたかいのだけれどさらっとしていて、研ぎ澄まされたセンスがしっかりとあって、そのうえ軽くてすごく使いやすい。つくる人と作品はもちろんまったく同じではないけれど、人柄は作品を通してどうしてもにじみ出るものだと思う。作品と同じように、彼女も、あたたかくてさらっとした愛情と、研ぎ澄まされたセンスと、分け隔てない親しみやすさをもった素敵な人だ。

彼女自身と彼女のつくる器、両方のファンになってしまった私は、仕事を辞めてからもほぼ毎年、展示の時期に松本に遊びに行っている。友達に会うのが目的、と言いながら、器を見るとほしくなって、結局たくさん買い込んでしまうのが常だ。

「私が好きなのは、食べることが好きで美味しいものを美味しいって楽しめる人、自分の好きなものがはっきりしている人、それから、何が食べたいとか何をしたいとか、自分で決められる人」と、友達は言っていた。

自分が何が好きかをはっきりとわかっているから、彼女には老若男女をとわず、世界のいろいろなところにたくさんの友人がいる。ただふらりとギャラリーに訪れただけの人でも、気が合えばすぐに仲良くなってしまうのだ。

好きなことを仕事にして、自分がいいと思うものをつくり続けて、子どもも2人育て上げ、好きな人たちと美味しいものと素敵なものを大切にして日々を暮らす。そういう、一見自由で軽やかに見える生き方を続けていくのは決して簡単なことではないし、強い信念が必要だ。

彼女はその「簡単ではない」ところを隠すこともしないけれど、そういう話をしていても、全然苦々しくも重くもならない。ただ、あることはあることとして受け止めて、あとは毎日を楽しむことにエネルギーを使っている。もしかしたら本人はすごく悩んでいるのかもしれないけれど、楽しむことが本当に上手な人だ。

だから、私も彼女と会う時にはいつも楽しいし、たくさんの元気をもらう。

そして、毎回の短い旅から持ち帰ってくる彼女の器もまた、私と家族の日々の暮らしを気持ちのいいものにしてくれる。

気持ちがすさんでいる時でも、彼女の器を食器棚から出す時は、なんとなくとっておきのものを手にとるようなうれしい気持ちになる。仕事が忙しくても、彼女のカップにお茶を入れて飲むと、少しだけゆったりした気分になれる。

彼女も、彼女の器も、そんな風にたくさんの人の暮らしや心を豊かにしているのだろう。

実際に会えるのは年に一度くらいだけれど、私の人生には欠かせない友達だなあとしみじみ思う。

今年も会いに行けて、本当によかった!

大好きなカフェの話

チェンマイには、カフェがたくさんある。

6,7年前くらいまでは、まだあまりなかったそうだけど、私がはじめて訪れた2年前には割とあちこちにこだわりのカフェみたいなところを見かけた。今回は、その時よりも増えていて、ほんとにコーヒーの街という感じ。

とはいえ、どこでも美味しいわけではないので、通うところは大体限られてくる。

はじめて来た時に泊まった宿の近くで、すごく気に入ってしょっちゅう通っていたカフェがあった。wifiもないし、屋外だからかなり蚊に刺されるのだけど、バリスタのニコラがめちゃくちゃいい人で、ニコラがチェンダオの自分の村で育てて自分でローストしているコーヒーは本当においしくて、とても居心地が良い場所だった。座っているテーブルのすぐそこで、ニコラが豆をローストしているその匂いもすごく良かった。

そのうち、ニコラの彼女の日本人のかなこちゃんもチェンマイにやってきて、コーヒーを出したりお客さんの相手をしてくれるようになって、カフェはますます繁盛していた。私も、日本語でのおしゃべりができるのもまた楽しくて、やっぱり足しげく通っていた。

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今回も二人に会うのを楽しみに帰ってきたら、お店は旧市街の外に移っていた。今度はちゃんと屋内の、大き目の道に面したきれいなお店で、ご飯やシェイクもメニューに加わっていた。

これまでの常連さんで通い続けている人もいたし、朝ご飯を食べにくるはじめてのお客さんもいたけれど、今までよりも大きなお店を維持していくのは少し大変そうだった。何より、コーヒーを本当に愛しているニコラは、豆をローストする場所がないことがつらいみたいだった。

また、前のところみたいに繁盛するようになるといいな、たくさんの人にここのコーヒーの美味しさを知ってほしいなと思いながら、私もなるべく通っていたのだけれど、この間立ち寄った時、かなこちゃんが教えてくれた。

「あのね、1月20日でここを閉めることにしたの」

この場所でお店を維持していくのはお金もかかるし、美味しいコーヒーを出す、という本当にやりたいことに注力することができない。だから、まずはニコラの村に戻って家族の手伝いをしばらくした後、チェンダオの街でコーヒーだけを出すお店を始めることにしたのだそうだ。

私にとって、二人に会うのとここのコーヒーを飲みに来るのは、ほとんどチェンマイに来る理由のひとつみたいになっていたので、二人がいなくなってしまうのはすごく残念だった。でも、それが二人にとっていい選択であることは疑いなくわかったので、もう「よかったね!」というしかなかった。

山に囲まれたチェンダオの街の好きなだけ豆をがんがんローストできる場所で、本当にコーヒーが好きなお客さんだけを相手に、興味がある人にはコーヒーの淹れ方も教えたり、そんな暮らしの方が、ごみごみしたチェンマイの街中のお店に縛られているより、絶対に楽しいにちがいないし、私もちょっと遠いけど行ってみたいと思う。

チェンマイに来る理由がひとつ減ってしまったようで少し寂しかったけど、つまりは、チェンダオに遊びに行く理由が増えたということだ。

二人のコーヒーは本当に美味しいので、それによって、チェンダオが今よりももっと知られ始めるようになる日もそう遠くないのではと思っている。

We’re All Water

東京都現代美術館でやっているオノヨーコさんの展示、「私の窓から」を見てきた。

最後の方に展示されている”We’re All Water”という作品がある。

ずらっと並んだお椀に水が入っていて、それぞれに歴史上の人物や芸術家、政治家などの有名な名前のラベルがつけてある。彼女の歌っている同名の曲をヘッドフォンで聴きながら、ひとつひとつの名前を見ていたら、涙が出てきた。

私たちはみんな結局は同じ水で、違う容れ物に入っているだけ。

そういう考え方は、スピリチュアルな本なんかを読むとよく書いてあるし、それ自体は今の時代にはそんなに目新しくないのかもしれない。でも、それをこれだけシンプルに明確に、感覚にずっしりと響く形で訴えて伝えることのできる人は、なかなかいないと思う。

そして、彼女はそれを何十年も前からずーっとやってきた。全然ぶれていないのだ。

とても感動して家に帰って、その翌日、パリでテロが起きた。

ああ、と思った。オノヨーコさんのメッセージがぶれないのは、世界が、私たちが、彼女の伝えようとし続けていることを学んでいないからなんだなあ、と。

愛と希望に満ちた平和な世界は可能だと、彼女は一貫して訴え続けている。でも、世界はまだお互いを否定したり、責めたり、攻撃したりするエネルギーにあふれている。国や宗教の間だけじゃなく、個人の間でも。というより、私たち個人のひとりひとりが、誰かを責めたり否定したりすることをやめることができれば、きっと世界は変わるはずなのだ。だから、それはものすごく難しいのだ。

それでも、オノヨーコさんは諦めずにメッセージを発し続ける。彼女の見ている世界が本当はそこにあるのだということを、伝え続けてくれる。

道のりは果てしなく遠いけれど、せめて、何かをする時や言葉を発する時にはなるべく愛と希望を忘れないように、気持ちいい状態でいられるようにできたらいいなあと思う。

We’re all water from different rivers
That’s why it’s so easy to meet
We’re all water in this vast, vast ocean
Someday we’ll evaporate together

私たちはみんな 違う川を流れる水
だから出会うのもとても簡単
私たちはみんな この大きな大きな海の水
いつか蒸発する時は みんな一緒

『ニーナ・シモン~魂の声』

“What Happened, Miss Simone?”(『ニーナ・シモン~魂の歌』)を見た。

ニーナ・シモンの声と歌には、ほかにはない心を打つ力がある。同じ歌でも彼女が歌うとまったく違ったりする。

私は彼女の個人的な人生のことを全然知らなかったので、映画を見て新しく知ることがたくさんあった。時代に必要とされた人だったんだなとしみじみ思った。

インタビューの中で、一番印象深かったのがこのシーンだった。

「自由って何ですか?」と問われて、ニーナ・シモンは最初、「それは恋みたいなもの。恋に落ちたことのない人には説明してもわからない。それと同じで、自由も自分がそれを経験するまではわからない。でも、経験したらすぐにわかる」と答える。

そして、はっとしたように言う。

「私にとっての自由が何だか教えてあげる。恐れのない状態のことよ」

「人生の半分でもいい、その感覚を持つことができたら…」とつぶやくニーナの表情はすごく切実で、胸をつかれた。

恐れのない状態。なんて、的を射た表現だろう。

私たちの毎日は、本当にいろんな恐れに支配されている。そのほとんどは、こんなことが起こったらどうしよう、あんなふうにするんじゃなかった、あの人にどう思われただろう、とか、小さなどうでもいいようなことだけれど、その恐れの声がふと途切れた時、それがどんなに素晴らしい感覚かに気づく。

たとえば、大きくて圧倒されるような自然の中に身をおいた時。すごくきれいな風景を見た時。気のおけない人と過ごす時間の中で、ふと会話がなくなった時。

何も恐れないで、ただ自分がそこにいる。それが本当に「自由」ということなのだろう。私たちの多くは、そういう瞬間をできるだけ多く重ねようとしながら四苦八苦して生きているのだと思う。

プライベートではたくさんの恐れの中で生きていたニーナがステージに立って歌う時、観客は彼女がそこで感じている自由を分かち合った。

自分は苦しみ続けもがき続けていても、人は人に救いや愛を与えることができる。もちろん、自分がしあわせで、やさしさと愛に満たされていて、その光を周りと分かち合うことができる、それが理想的だけど、ニーナのような人を見ると、私はいつも人間ってすごいなと心から思うのだ。