どうして、死について話すの?

どうして、わざわざ死について話したいの?
と、聞かれることがあります。

数年前に、死についてのインタビューを書こうと思って、いろいろな人に話を聞いていた時にも、それを見ていた人(インタビューを承諾してくれた人からは、不思議と聞かれなかった)から聞かれることがありました。

生きることをめいっぱいに経験しようとしたら、そこには必ず死があるし、誰かや何かをめいっぱいに愛そうとしたら、そこには必ず失うことが存在しているから。(だから、死を語ることは大事だと思う!)

みたいに、ちょっとかっこいい感じで答えてみることが多いのですが、もっといえば、ほんとうに単純に、死や喪失について話ができる、そういう場があるということが私にとって、とても大切で必要だからなのだと思います。

私は普段、ことさらに死のことだけを突き詰めて話しているわけではなく、友達や周りの人たちとは、庭に植えたトマトに実がついたとか、こんな面白い本を読んだとか、とか、あの人とあのレストランでこんなものを食べたよ、とか、冗談を言ったり、たいていは、他愛のないおしゃべりばかりです。

ただ、そういうおしゃべりの中で、誰かがふと、死のことや、何かや誰かを失うことについて話をしたいと思ったとき、それが自然にできるようであれたらいいなと思っています。

その時のその人にとっては、死や喪失が、庭のトマトが実をつけたのと同じくらい、日常で、身近なことかもしれないからです。

いま実際に、死や喪失を経験している最中かもしれないし、そうでなくても、心に引っかかっている何かや、言葉にしてみたい思いがあるのかもしれない。

それを飲みこまなくてはいけないと思わずに、ぽろっと口に出すことができる感じが、私たちの日々の暮らしの中にあったらいいなと思います。

私のクラニオの先生、ローズマリーは死生学のクラスも教えています。
クラスといっても、先生が何かを教えるというより、ディスカッションや体を使ったワーク(いつか、この会でもシェアしたいと思っています)が中心で、朝から夕方まで、いろいろな角度から死や喪失について語り、向き合って5日間を過ごします。

その5日間が終わった時にいたのは、前よりも少しだけ、死をこわがらなくなって、その分、生きることもこわくなくなった自分でした。

死や喪失だけでなく、誰かを愛することでも、いつかかなえたい夢でも、こわかったり、目をそむけたくなることについて、言葉にしてみたり、向き合ってみること、それを安全に誰かと分かち合えることは、心と体をやわらかくしてくれるように思います。

心と体がやわらかく、ひらけている、ということは、準備ができているということなのだと思います。自分がそのことに向き合う準備。誰かがそのことを体験している時に、自分を失うことなく、寄り添うための準備。

月に1回、数時間くらいでは、できることも限られているかもしれませんが、その場があることに意味があるのかなと思っています。誰かのためにというより、何よりたぶん、自分のために。もしかしたら少しずつでも、準備ができるように。「わざわざ」こんな風に集まって死を語ろう!という会を、細々とでも続けていこうと思っています。

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写真は、庭のししとうです。
雨のおかげで、実をつけました!

マインドフルネスということ

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気がつけばもう一週間前になってしまうけど、慈恵会医科大学で行われた「いのちのケアとスピリチュアリティ」の公開シンポジウムに行ってきた。

アメリカの大学で臨床宗教士教育を教えている教授、禅の実践もされているスウェーデンの病院のチャプレン、スリランカで若者のためのドラッグリハビリセンターを運営している仏教のお坊さん。

様々な臨床の場で仏教の教えに基づく在り方を実践しているパネリストの方々は、話の内容はもちろん、話し方や振る舞い、佇まいが、そのまますごい説得力。

地に足がついていて穏やかで、やさしくて、ひらけていて、客観的だけれど、深い共感がある。そして、本当にそこにいる、という感じ。

マインドフルネスって、そういうことなのかなと思った。

本当にそこにいる、ということ。

何日も瞑想をしたり修行をしてできるようになる人もいれば、日々の営みの中で自然とできている人もいるのだろうし、どちらにしても、それは知ったりわかったりするのではなく、体感して体現していくもの。だから、「マインドフルである」というのは、簡単なことではないのでしょう。

パネリストの一人、スリランカの仏僧のボーダナンダ師が、人に寄り添う時は仏教の「慈・悲・喜・捨」を持っていなさい、という話をされていたのだけれど、質疑応答の時に看護師の方が聞いた「患者さんに接する時に『慈・悲・喜・捨』を持つことが難しい時があるのですが、どうしたらいいですか?」というような内容の質問に対して、「心がけて練習し続ければできるから、とにかくしなさい」みたいに、ある意味とても元も子もない答えを返していたのが、何だか妙に納得してしまった。

ダライ・ラマの本を読んだり、タイで仏教の道をしっかり生きている人たちと話している時にも感じることだけれど、本当にこう生きようと決めてそれを実行している人たちのいうことは、あまりにもシンプルで元も子もないことが多い。生きてくる中で、それしかないとわかってしまった人たちだからなのだと思う。

こうあろうと決めたら、本当に、ただそうである。自分が向いている方向をじっと見つめて、少しでも目指す方からずれていると思ったら、それに気づいて修正する。方法はそれしかなくて、それを何度も何度も繰り返して、いつか少しずつ、目指す方向が自分の在り方になっていくのだろう。

長い道のりだなあ。

そして、それだけ常にきちんと自分を見つめ、自分とともにいることができる人こそが、誰かが必要な時に本当にともにいることもできるのだと思う。

ゆっくりと動いて、呼吸をする。
呼吸を感じる。
「わからない」という状態にただ留まる。

大きな悲しみや苦しみを前にしてどうしたらいいかわからなくなった時に心がけていると、スウェーデンのチャプレンの方が語っていたこと。

尊敬するボディーワークの先生たちも、何度も同じことを伝えてくれる。

呼吸を感じる。からだを感じる。自分の状態を、ただ感じる。

誰かに寄り添いたいと思うなら、まずは、自分から。

何て難しい!と、うんうん言いながら、毎朝や仕事前に何となく瞑想っぽいことをしたり、外に向きがちな目を一生懸命、自分の方に向ける時間を持つことをこつこつ続けていこうと思う。

それにしても、こんなシンポジウムが医科大学で行われる(そしてちゃんと人が集まる!)って、すごく画期的!

私にとって病院はどうしても何となく無機質な感じがして、ただでさえ行くだけでも何となく気が重くなるところなので、こういう取り組みがどんどん増えて、病院が人が人と出会っていることを感じさせる場になっていったらいいなあ、と思う。