「こころにやさしいタッチケア基礎講座」レベル1を受講してきました。

今月の初め、中川れい子さんが教える「こころにやさしいタッチケア基礎講座」のレベル1を受講してきました。

ふれるってどういうことなのか。
人が人にふれる時、何が起こっているのか。
誰かにふれようとするとき、私たちはどうあるのが良いのか。

理論面も実技も充実の、本当に学びの多い盛りだくさんの二日間。

理論をじっくり教えていただいたことで、自分自身の施術において今まで不明瞭だったこともクリアになったし、何をしているのか聞かれた時にこれまでよりもしっかりと説明するための言葉をいただいた、という感じがしました。

ボディーワーク的なことを学ぶのはまったく初めての方や、セラピストやボディーワーカーの仕事を長年している方、本当に様々なバックグラウンドの方たちとタッチを通して出会えたことは本当に得難い体験だったし、改めて自分にとっての「ふれること」「ふれられること」を見直す、素晴らしいきっかけになりました。

仕事として施術をするようになってからまだ5年経つか経たないかくらいだけれど、それでも知らず知らずのうちに、「仕事としてやっているんだから」と自分にかけていた制限を、ふっとはずしてもらったような感じ。

ボディワークを学び始めたきっかけは、疲れていたり体調を崩した家族や友人、同僚たち(そう、それから猫も!)に、ただ「さわりたい」と思ったからだった、と思い出しました。

気づきを持って、そのままの自分で、ハートから、ふれる。

技術や知識は後からついてくるもので、本当に大切なのは、そして私が本当にしたいことも、結局はそれなんだなあ。と、その気持ちに戻ってきたら、施術に対しても変に構えたところがなくなって、すっと肩の力を抜いて臨むことができるようになった気がします。

「家族や仲良しの友人には情が出てしまって、きちんとした施術をするのは難しい」と決め込んでいたのも、やーめた!で、タッチケア講座を受けてからは、情がわきそうな相手でも何でも、ふれたいなと思ったら素直に気軽にふれていて、それがとても心地よい感じです。

そう、もともと昔から、ただふれることが好きだったのです。
ふれることで人とともにありたいと思ったから、体の仕事をしようと思ったんだもの。

「仕事だから」と気負って向かう方向を見失う、という状態、書くことに対しても一時期あったのですが、ふれることにおいても、そうなりかけていたみたい。大切なものをとりもどさせてもらったなあと思います。

れい子さんのあたたかくて愛にあふれた佇まいからも、参加者のみなさんと文字通りハートでつながれた体験からも、得るものがとても多い、満ち足りた時間でした。

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れい子さん、一緒に学んでくださったみなさま、本当にありがとうございました!

マインドフルネスということ

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気がつけばもう一週間前になってしまうけど、慈恵会医科大学で行われた「いのちのケアとスピリチュアリティ」の公開シンポジウムに行ってきた。

アメリカの大学で臨床宗教士教育を教えている教授、禅の実践もされているスウェーデンの病院のチャプレン、スリランカで若者のためのドラッグリハビリセンターを運営している仏教のお坊さん。

様々な臨床の場で仏教の教えに基づく在り方を実践しているパネリストの方々は、話の内容はもちろん、話し方や振る舞い、佇まいが、そのまますごい説得力。

地に足がついていて穏やかで、やさしくて、ひらけていて、客観的だけれど、深い共感がある。そして、本当にそこにいる、という感じ。

マインドフルネスって、そういうことなのかなと思った。

本当にそこにいる、ということ。

何日も瞑想をしたり修行をしてできるようになる人もいれば、日々の営みの中で自然とできている人もいるのだろうし、どちらにしても、それは知ったりわかったりするのではなく、体感して体現していくもの。だから、「マインドフルである」というのは、簡単なことではないのでしょう。

パネリストの一人、スリランカの仏僧のボーダナンダ師が、人に寄り添う時は仏教の「慈・悲・喜・捨」を持っていなさい、という話をされていたのだけれど、質疑応答の時に看護師の方が聞いた「患者さんに接する時に『慈・悲・喜・捨』を持つことが難しい時があるのですが、どうしたらいいですか?」というような内容の質問に対して、「心がけて練習し続ければできるから、とにかくしなさい」みたいに、ある意味とても元も子もない答えを返していたのが、何だか妙に納得してしまった。

ダライ・ラマの本を読んだり、タイで仏教の道をしっかり生きている人たちと話している時にも感じることだけれど、本当にこう生きようと決めてそれを実行している人たちのいうことは、あまりにもシンプルで元も子もないことが多い。生きてくる中で、それしかないとわかってしまった人たちだからなのだと思う。

こうあろうと決めたら、本当に、ただそうである。自分が向いている方向をじっと見つめて、少しでも目指す方からずれていると思ったら、それに気づいて修正する。方法はそれしかなくて、それを何度も何度も繰り返して、いつか少しずつ、目指す方向が自分の在り方になっていくのだろう。

長い道のりだなあ。

そして、それだけ常にきちんと自分を見つめ、自分とともにいることができる人こそが、誰かが必要な時に本当にともにいることもできるのだと思う。

ゆっくりと動いて、呼吸をする。
呼吸を感じる。
「わからない」という状態にただ留まる。

大きな悲しみや苦しみを前にしてどうしたらいいかわからなくなった時に心がけていると、スウェーデンのチャプレンの方が語っていたこと。

尊敬するボディーワークの先生たちも、何度も同じことを伝えてくれる。

呼吸を感じる。からだを感じる。自分の状態を、ただ感じる。

誰かに寄り添いたいと思うなら、まずは、自分から。

何て難しい!と、うんうん言いながら、毎朝や仕事前に何となく瞑想っぽいことをしたり、外に向きがちな目を一生懸命、自分の方に向ける時間を持つことをこつこつ続けていこうと思う。

それにしても、こんなシンポジウムが医科大学で行われる(そしてちゃんと人が集まる!)って、すごく画期的!

私にとって病院はどうしても何となく無機質な感じがして、ただでさえ行くだけでも何となく気が重くなるところなので、こういう取り組みがどんどん増えて、病院が人が人と出会っていることを感じさせる場になっていったらいいなあ、と思う。