マインドフルネスということ

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気がつけばもう一週間前になってしまうけど、慈恵会医科大学で行われた「いのちのケアとスピリチュアリティ」の公開シンポジウムに行ってきた。

アメリカの大学で臨床宗教士教育を教えている教授、禅の実践もされているスウェーデンの病院のチャプレン、スリランカで若者のためのドラッグリハビリセンターを運営している仏教のお坊さん。

様々な臨床の場で仏教の教えに基づく在り方を実践しているパネリストの方々は、話の内容はもちろん、話し方や振る舞い、佇まいが、そのまますごい説得力。

地に足がついていて穏やかで、やさしくて、ひらけていて、客観的だけれど、深い共感がある。そして、本当にそこにいる、という感じ。

マインドフルネスって、そういうことなのかなと思った。

本当にそこにいる、ということ。

何日も瞑想をしたり修行をしてできるようになる人もいれば、日々の営みの中で自然とできている人もいるのだろうし、どちらにしても、それは知ったりわかったりするのではなく、体感して体現していくもの。だから、「マインドフルである」というのは、簡単なことではないのでしょう。

パネリストの一人、スリランカの仏僧のボーダナンダ師が、人に寄り添う時は仏教の「慈・悲・喜・捨」を持っていなさい、という話をされていたのだけれど、質疑応答の時に看護師の方が聞いた「患者さんに接する時に『慈・悲・喜・捨』を持つことが難しい時があるのですが、どうしたらいいですか?」というような内容の質問に対して、「心がけて練習し続ければできるから、とにかくしなさい」みたいに、ある意味とても元も子もない答えを返していたのが、何だか妙に納得してしまった。

ダライ・ラマの本を読んだり、タイで仏教の道をしっかり生きている人たちと話している時にも感じることだけれど、本当にこう生きようと決めてそれを実行している人たちのいうことは、あまりにもシンプルで元も子もないことが多い。生きてくる中で、それしかないとわかってしまった人たちだからなのだと思う。

こうあろうと決めたら、本当に、ただそうである。自分が向いている方向をじっと見つめて、少しでも目指す方からずれていると思ったら、それに気づいて修正する。方法はそれしかなくて、それを何度も何度も繰り返して、いつか少しずつ、目指す方向が自分の在り方になっていくのだろう。

長い道のりだなあ。

そして、それだけ常にきちんと自分を見つめ、自分とともにいることができる人こそが、誰かが必要な時に本当にともにいることもできるのだと思う。

ゆっくりと動いて、呼吸をする。
呼吸を感じる。
「わからない」という状態にただ留まる。

大きな悲しみや苦しみを前にしてどうしたらいいかわからなくなった時に心がけていると、スウェーデンのチャプレンの方が語っていたこと。

尊敬するボディーワークの先生たちも、何度も同じことを伝えてくれる。

呼吸を感じる。からだを感じる。自分の状態を、ただ感じる。

誰かに寄り添いたいと思うなら、まずは、自分から。

何て難しい!と、うんうん言いながら、毎朝や仕事前に何となく瞑想っぽいことをしたり、外に向きがちな目を一生懸命、自分の方に向ける時間を持つことをこつこつ続けていこうと思う。

それにしても、こんなシンポジウムが医科大学で行われる(そしてちゃんと人が集まる!)って、すごく画期的!

私にとって病院はどうしても何となく無機質な感じがして、ただでさえ行くだけでも何となく気が重くなるところなので、こういう取り組みがどんどん増えて、病院が人が人と出会っていることを感じさせる場になっていったらいいなあ、と思う。